2013年1月2日

表記のこと

このところひどく気になっていることがある。外国の名前の表記だ。実際に外国に出かけたり、外国から人がきたりして交流する機会も多く、ましてインターネットではインターネット・ラジオだの、ポッドキャストだの、ユーチューブだの、さまざまな形で原語に接する機会は多い。映画ともなれば、断固吹き替え拒否という人も多く、それだけ語学力はついてきていいはずなのに、じつに不思議な表記を目にする機会が増えている。
とくに気になったのがミーガンという表記だ。原音表記のつもりだろうが、正しい発音はメーガン(メイガン)で、略称はメグだ。メの部分にアクセントがあるというのを早とちりしたのだと思うのだけれど、いったいどこからこんな表記がはじまったのだろう。ローマ字読みにしてもメガンにしかならないのに。
もっとも、こうしたえせ英語通の表記はいまにはじまったことではない。車のメーカーのドッジはむかしからダッジという誤表記がまかりとおっている。ドッジボールという正しい言い方をふだんしているにもかかわらずだ。半可通の人はドジャーズまでダジャーズなどといっているから笑ってしまう。
ドルーという名前もそうだ。中学英語で不規則活用の動詞を覚えるのに、drawやblowの活用形はみんな勉強しなかったのだろうか。ケン・リュウの綴りがLiuになっていることからもわかるように、アメリカ人はリューという発音が苦手だ。革命だって、リヴォルーションだし、そのほうがリヴォルヴァーと同系列の語だとわかって便利なはずだ。
ただ、間違いが怖くてローマ字読みがまかりとおるのもいただけない。世界中で大ヒットしたアニメ『小公女セーラ』を知っているくせに、Sarahは平気でサラと書いてしまう翻訳者の多いこと。正しい音はセアラだが、二重母音はふつう頭の母音の長音で表すから、セーラならありだろう。ホール&オーツやジェファースン・スターシップのヒット曲で耳から入っている人も多いのに、なぜ間違えるのかが不思議だ。
ジョナサン・リーサムのように会う人ごとにおれはリーサムだといっている作家の表記がなおらないのも不思議だし、リサ・スコトリーネのようにイタリア系の名前がなぜか英語読みもどき(綴りをみれば英語ではないことは一目瞭然だ)のままの人もいる。ペレカーノスも惜しいところでちゃんと表記してもらえていない作家だ。
親しみやすい名前なら原音にこだわることはないという人もいるだろう。でも、ヤマザキかヤマサキか、オヤマかコヤマか、同国人だってちゃんと名前を呼んでもらうことにはこだわるのに、まして知らない国で適当な名前で呼ばれているなんて知ったら不快に思わないだろうか。親しみやすいからといって、三国志の英雄で関帝廟にもまつられているひとのことを、セキさんとか呼んでいいものだろうか。日本風の読み方でいいという考えに、どこか戦前の創氏改名につうずる傲慢さを感じてしまうのはぼくだけだろうか。
もちろん、正確な音を50音で表記することはできない。あくまで近似値だ。それをいったら翻訳など成り立たない。でも、なるべく正しい音で覚えてあげることは、外国の人や文化に接するときの礼儀ではないだろうか。洋画や翻訳書に人気がなくなってきているというのも、いい加減な表記が増えているのも、そうした外国とのつきあい方が苦手になっていることの現れのよう な気がしてならない。
読みに自信がなければ聞けばいい。オーディオブックだってふつうに出ているだろう。メールだってできるはずだ。そもそも難読名前の作家はインタビューでかならず発音を聞かれている。NFLをはじめ、プロスポーツの選手だって、最近ではテレビで名前を全員が名乗る。難読だからこそ、ちゃんと覚えてほしいというのは人情だ。まして、ふつうの名前なら間違えるほうがおかしい。
ああ、気になる。

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