2016年2月26日

デヴィッド・ボウイ追悼作品

SFマガジン2016年4月号のデヴィッド・ボウイ追悼特集でニール・ゲイマン「やせっぽちの真白き公爵(シン・ホワイト・デュークの帰還」を翻訳しました。ボウイ・ファン、ゲイマン・ファンはもとより、幅広く楽しんでいただける短篇だと思うので、ご笑覧ください。

なお近況でもふれましたが、東京神田神保町の喫茶店で隔月で〈翻訳を愉しむ会〉という集まりを主催しています。近況では名前を間違えてしまいましたが、3月に取りあげるのはアンバー・スパークスです。ご興味のある方はお問い合わせの上、ご参加ください。英文テキストを事前に配布します。

小川

2016年2月8日

ダン・ヒックス

またしても訃報だ。

60年代からサンフランシスコの音楽シーンを作っていたダン・ヒックスが6日に亡くなった。肝癌だった。

1965年、最初のヒッピー・バンドといわれるシャーラタンズに二人目のドラマーとして参加したあと、67年にはデイヴィッド・ラフレームといっしょにダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックスを結成した。もっとも、デイヴィッドはすぐにまた辞めて、自分のバンド、イッツ・ア・ビューティフル・デイを結成しているから、このころのサンフランシスコのバンドの人の流れはおもしろい。自身、フォーク・ジャズと呼ぶ、いまならアメリカーナに分類されるような、ロックとはちょっと違うテイストの音楽をやってきたのだけれど、そもそもシャーラタンズがそんなバンドだったし、似たようなことをやっている人たちはたくさんいた。仲間とバンドをやるのが楽しかったので、音楽の種類などみんな気にしていなかった。むしろ多様なことが好まれていたのだ。イギリスのバンドに影響されずに楽しく音楽をやろうと思えば、スタイルがいろいろになるのは自然なことだった。もっとも、当時のぼくはロック・キッズだったから、カントリーやフォークやジャズのトーンが濃いバンドはアルバムをせっせと買う余裕もなかったし、聴けば気持ちいいたぐいの音楽だと思っていただけだった。来日公演だっていっていない。最大のヒット曲はI Scare Myself(1969)、ホラーのラジオドラマのBGMにもよく使われた曲だ。ちょっとだけ映画にも出ているみたいだ(ジーン・ハックマン主演の『訴訟』)。

コマンダー・コディとかサル・ヴァレンティーノとかトレイシー・ネルスンとか、アルバムを買いまくったわけではないけれど、同じようにロック本流ではなかったあのころのサンフランシスコのミュージシャンは、それでもいつでも地元では聴くことができたし、突然ポップになってしまったスティーヴ・ミラーや、都会的なR&Bに変身してしまったボズ・スキャッグズのように驚かされることなく、ぶれずに持ち味の音をいつでも聴かせてくれる信頼できる存在だった。こういう人たちは細く長く、ずっと音楽を聴かせてくれると思いこんでいた。たしかにみんなもう年を取っているけれど、ぼくが若いころに聴いていたブルーズのミュージシャンなんて、当時からもう年寄りに思えていたものだ(ちなみにバディ・ガイなんて、今年80歳になるというのにいまだにばりばりの現役だ)。ダンが癌を患ったというニュースは目にした記憶があるけれど、まだまだがんばっていてほしかった。

訃報続きなので、ともかく悲しい。