2014年8月30日

ノーダン特集

明日でノーダンの短篇は掲載期限が切れるので読めなくなりますが、ほかの記事は閲覧できるままなのでご安心ください。最近フォークソングをよく聴いているといいましたが、ミズーリ州の警官による黒人少年射殺事件をきっかけに公民権運動時代のフォークソングをよく耳にするようになりました。そんななかで当時は海賊版でしかきけなかったボブ・ディランのエメット・ティル事件を題材にしたを久しぶりに聴きました。当時の日本では〈朝日のあたる家〉と同じコード進行のそっくり曲として紹介されただけだったと思います。ルイス・ノーダンは同じ事件をWolf Whistleとして小説化するのに、白人でありながらロバート・ジョンスンを引き合いに出すことによって南部の誇りをも示しています。いまだにおぞましい差別意識が根強く残るアメリカですが、そこに正義感や倫理観だけをぶつけても解決にはならないことはこれまでの歴史が物語っています。さまざまな人間の気持ちを読み取り、かよいあわせることによってしか何も進んでいかないのだろうと思います。改めて、ノーダンへの思いがつのると同時に、ぼくたち翻訳者の担うものの大きさを感じています。(小川)

2014年8月17日

オフビート

 このところずっとフォークとロックの関係を考えていることはすでにお話しした。ロックの最大の特徴はバックビートとも呼ばれる、裏拍にアクセントを置いたリズムだ。ふつうに心地よい整ったリズムは最初の拍にアクセントが置かれて、そこからリズムが導かれていくのだが、あえてそこをずらすことによって、タメができ、強拍を期待する気持ちが(心の準備が)できるために、自然と体が動くようになるのが、バックビートの特徴で、ロックがダンスミュージックとして発達したのも、このためだ。わかりやすくいえば、みんなで力を合わせるときに使うかけ声の「っせーの」がバックビートだ。あえてあるはずのフロントビートを省略することで、タメができ、力を合わせやすくなっているのだ。
 この力を合わせるということがロックの特徴だ。フォークももともとは共同体の、集団の音楽だったのが、個人主義の台頭によって、個人的な表現に変容していったことは前回にふれた。それにたいして、ビートルズをきっかけに、世代的連帯感が生まれ、新しい集団の音楽として発達したのがロックだ。ロックが集会の音楽になり、フェスティヴァルや、ベネフィットと呼ばれる募金イヴェントに結びついて考えられるようになったのも自然な流れだ。バンドで演奏されるという送り手側の問題ではなく、時代の要請によって、バックビートをもつという属性が、ロックを集団の音楽にしていたのだ。
 だが、いまのネットの時代、ロックは明らかに衰退している。いまは集団を求めないサイクルに時代が流れてきたことが原因だろう。ブルース・スターリングがいみじくも『スキズマトリックス』で描いた〈分断しながらも(スキズム)ゆるやかに結合している(マトリックス〉社会が訪れているのだ。バックビートがあっても、体が動いてこない、視覚本位のライフスタイルになってしまったのだろう。 <br> そういえば気になることがある。かけ声であるはずの「っせーの」をこのごろ「いっせーの」という人間が増えていることだ。最初の音を省略しないで、フロントビートを使ってしまったら、集団の力をそろえるきっかけではなくなってしまうのに、そういう知恵が薄れ、意味だけを補って「一斉に」という意味のかけ声にしたい気持ちが働いているからだろう。集団で力を合わせるということがもはや農作業ですら減っているいま、これもしかたのないことかもしれないが、気持ち悪いことはなはだしい。コンサートでも、ブレイクを待ちきれない聴衆が増えているような気がする。
 気持ちをそろえるための「オフビート」という言葉さえ、いまや「異端の」、「暗い」という意味で使われるようになってしまった。テクノロジーの発達でさまざまなことが可能になっているのに、思いのほか、新しいムーヴメントが出てこないのはなぜだろうと不思議に思ってきたのだけれど、力を合わせることを体験しない世代からはムーヴメントなど生まれようもないのだろう。バックビートの心地よさを知ってもらうことはもうむずかしいのだろうか。