2013年4月17日

シュガーとフリークたち

ルイス・ノーダン追悼特集に短篇「シュガーとフリークたち」を追加しました。
タイトルから連想されるように、障害をもつ人たちと成人したシュガーとの交流を描いた作品ですが、人間はみなフリークであり、お互いに肯定して生きていけるのだというテーマなので、あえてネガティブな背景をもつ用語もまじえて訳しました。たぶん南部作家のノーダンとしては、何もかもきれいごとで済ませようとするヤンキー知識人とは大いに相容れないものを感じていたのでしょうし、まだまだ若かったということでもあるのでしょう。生涯をつうじて彼をサポートした編集者シャノン・ラヴネルが初めてバディと出会った作品でもあり、こだわりをもっていた短篇です。文学的にいえばアレゴリーでしかない透明人間というくだりも、SFファンのぼくにはすごくよくわかるギークな感覚でした。
初出は〈ハーパーズ〉1982年6月号です。いまでも小説を掲載している数少ないカルチャー・マガジンです。
なんとか4月13日のご命日までに間に合わせようと思ったのですが、仕事の都合や家庭の事情、個人的な怪我などいろいろあって遅れてしまいました。残念です。あらためて、すてきな世界を見せつづけてくれたバディに感謝するとともに、ご冥福を祈りたいと思います。この特集に興味をもって読んでいただいている読者の方にも感謝します。
小川隆

2013年3月30日

訃報、ポール・ウィリアムズ

ポール・ウィリアムズが死んだ。まだ64歳、同じポールのつながりでいえば、マッカートニーなら歌を歌ってあげなければいけない歳なのに。 ぼくの仕事でいえば、かつてペヨトル工房から出させていただいた『フィリップ・K・ディックの世界』を訳したこともある。ワールドコンでも何度か会ったことがあるし、来日したときにはちょうど『グリンプス』を出したときだったこともあって、音楽評論家のパーティにお呼ばれしたこともある。三歳年上で姉と同い年だから、ぼくにとっては微妙な年齢差だったけれど、ロックもSFも好きということで、同じ仲間にくくられることがうれしかった人の一人だ。ちょっと悲しくて、説明ができない。こういう人だ。
http://www.pastemagazine.com/blogs/crawdaddy/2011/08/when-bad-things-happen-to-great-writers.html
あるときからメールが返ってこなくなったけれど、たぶんそれは事故のせいなのだろう。頭を打って大手術をして元気になったポール・カントナー(同じポールつながりだけれど)の例もあるけれど、回復はできなかったようで、一昨年からは寝たきりになっていたようだ。彼が始めた世界初のロック評論誌Crawdaddyもビル・グレアムの仲間がやっているWolfgang’s Vaultでずっと読むことができたし(去年、サイトのリニューアルでメニューから消えたけれど、まだあるはずだ)、新生版も作られていたのだけれど、それもしばらく前から出なくなっていた。ちょっとバディ・ノーダンのことを思い出してしまう。
http://www.rollingstone.com/music/news/paul-williams-rock-criticism-pioneer-dead-at-64-20130328
95年の自転車での事故から自分では何も書けなくなっていたというけれど、クローダディで何度も原稿は読んだ記憶があるので、口述筆記をしていたのかもしれない。それもできなくなって、それでもロックは聴いていたのだろうか? 本は読めていたのだろうか?
このところ、死のことをよく考える。自分が死ぬことではなく、生きている人間が死をどう受け止めればいいかということだ。結論なんてありはしない。でも、たいせつな人の死を知ると、なぜか人恋しくて集まりたくなる。葬儀というのはそういうことなのだろう。でも、いまどこにいけばいいのかわからない。ロックの人とSFの人とは日本ではうまく入りまじれないできたからだ。
そんな違和感を感じなくていいように、ここでも音楽小説の特集をしてみようと話しているところだったのに。
ポールとは年齢差の微妙さと同じように、音楽でも小説でも好みは微妙に違った。サンフランシスコのワールドコンで会ったときには、ロミオ・ヴォイドの再結成コンサートに誘ったら、その日はニール・ヤングのコンサートにいくんだといわれた。ニールなんていつだって聴けるだろうに、と思ったのだけれど、でもほんとうに好きなのは昔のミュージシャンなのだなと思ったりもした。
ああ、何もまともなことが考えられない。でも、きっとポールへの思いを何かしら共有したいと思って、集まれる場所を見いだせないぼくみたいな人がいるはずだ。そう思って、ともかく書かずにはいられなかった。まだひたすら悲しいだけだけれど。

2013年1月23日

「失踪した曙涯人花嫁の謎」

ワールドSF特集の最後の翻訳作品アリエット・ドボダール「失踪した曙涯人花嫁の謎」をアップしました。現在とは違う世界の違う世界観とテクノロジーを、とくに非アメリカの視点からアメリカを舞台にして描いた作品です。古いハードボイルドの体裁になっているのが、よけい異質さをきわだたせているように思うのですが、いかがでしょうか。
小川

2013年1月10日

ジェイ・レイク

とても悲しいことだけれど、ジェイ・レイクの容態がひどく悪くなっているそうです。去年の夏に癌の再発と転移が見つかって、それから化学療法をつづけていたのだけれど、また暮れに新たな転移が見つかったそうです。余命は1、2年だそうで、養女の成人はおろか、高校卒業も見届けられそうにないということで、ご家族はたいへん落ちこんでいるようです。
いまそのジェイの最後の1年を記録映画に残そうという計画があり、そこでは制作資金を募集しています。
オバマの医療保険改革の恩恵に浴したとはいえ、高額な医療費も予想され、その援助の募金も近々はじめられるということです。横浜のワールドコンにきてくれた数少ない新世代作家ですし、短篇の楽しさも、人柄の温かさも印象に残っています。資質的にはどうも長篇作家ではないような気がしますが、もっと紹介してあげればよかったと思います。ぼくたちにできることはあまりないかもしれないけれど、ともかく彼が生きた証を残そうと必死になっていることはひしひしと感じられます。この映画を見てみたいという方は、どうか資金援助をしてあげてください。右側に援助額に応じた特典が説明されています。 小川

2013年1月2日

表記のこと

このところひどく気になっていることがある。外国の名前の表記だ。実際に外国に出かけたり、外国から人がきたりして交流する機会も多く、ましてインターネットではインターネット・ラジオだの、ポッドキャストだの、ユーチューブだの、さまざまな形で原語に接する機会は多い。映画ともなれば、断固吹き替え拒否という人も多く、それだけ語学力はついてきていいはずなのに、じつに不思議な表記を目にする機会が増えている。
とくに気になったのがミーガンという表記だ。原音表記のつもりだろうが、正しい発音はメーガン(メイガン)で、略称はメグだ。メの部分にアクセントがあるというのを早とちりしたのだと思うのだけれど、いったいどこからこんな表記がはじまったのだろう。ローマ字読みにしてもメガンにしかならないのに。
もっとも、こうしたえせ英語通の表記はいまにはじまったことではない。車のメーカーのドッジはむかしからダッジという誤表記がまかりとおっている。ドッジボールという正しい言い方をふだんしているにもかかわらずだ。半可通の人はドジャーズまでダジャーズなどといっているから笑ってしまう。
ドルーという名前もそうだ。中学英語で不規則活用の動詞を覚えるのに、drawやblowの活用形はみんな勉強しなかったのだろうか。ケン・リュウの綴りがLiuになっていることからもわかるように、アメリカ人はリューという発音が苦手だ。革命だって、リヴォルーションだし、そのほうがリヴォルヴァーと同系列の語だとわかって便利なはずだ。
ただ、間違いが怖くてローマ字読みがまかりとおるのもいただけない。世界中で大ヒットしたアニメ『小公女セーラ』を知っているくせに、Sarahは平気でサラと書いてしまう翻訳者の多いこと。正しい音はセアラだが、二重母音はふつう頭の母音の長音で表すから、セーラならありだろう。ホール&オーツやジェファースン・スターシップのヒット曲で耳から入っている人も多いのに、なぜ間違えるのかが不思議だ。
ジョナサン・リーサムのように会う人ごとにおれはリーサムだといっている作家の表記がなおらないのも不思議だし、リサ・スコトリーネのようにイタリア系の名前がなぜか英語読みもどき(綴りをみれば英語ではないことは一目瞭然だ)のままの人もいる。ペレカーノスも惜しいところでちゃんと表記してもらえていない作家だ。
親しみやすい名前なら原音にこだわることはないという人もいるだろう。でも、ヤマザキかヤマサキか、オヤマかコヤマか、同国人だってちゃんと名前を呼んでもらうことにはこだわるのに、まして知らない国で適当な名前で呼ばれているなんて知ったら不快に思わないだろうか。親しみやすいからといって、三国志の英雄で関帝廟にもまつられているひとのことを、セキさんとか呼んでいいものだろうか。日本風の読み方でいいという考えに、どこか戦前の創氏改名につうずる傲慢さを感じてしまうのはぼくだけだろうか。
もちろん、正確な音を50音で表記することはできない。あくまで近似値だ。それをいったら翻訳など成り立たない。でも、なるべく正しい音で覚えてあげることは、外国の人や文化に接するときの礼儀ではないだろうか。洋画や翻訳書に人気がなくなってきているというのも、いい加減な表記が増えているのも、そうした外国とのつきあい方が苦手になっていることの現れのよう な気がしてならない。
読みに自信がなければ聞けばいい。オーディオブックだってふつうに出ているだろう。メールだってできるはずだ。そもそも難読名前の作家はインタビューでかならず発音を聞かれている。NFLをはじめ、プロスポーツの選手だって、最近ではテレビで名前を全員が名乗る。難読だからこそ、ちゃんと覚えてほしいというのは人情だ。まして、ふつうの名前なら間違えるほうがおかしい。
ああ、気になる。